2012年01月02日

フクシマ・シンドローム:真実か暴力か

フクシマ・シンドローム:真実か暴力か
原題 "THE FUKUSHIMA SYNDROME - A choice between truth and violence"

エリザベス・ぺレード・ベルトラン
Elizabeth Peredo Beltrán*


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地球という惑星は“不自然な”やり方で劇的に変化している。地球はもはや20〜30年前と同じではなく、地球が私たちを育み守る力も変化してきた。人間の介入が地球の変化 - そして人間の安全に生きる能力における変化 - をあまりにも大きな規模で誘発してしまったため、それは自然の本来の力によって引き起こされるいかなる自然災害をも上回る影響をもたらしていると科学者たちは断言する。地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)が2004年に発表した研究報告によると、「今や人間の活動は、いくつかの生物地球化学的循環において、自然と同等あるいは自然以上の要因となっている。その影響の空間的広がりは、地球の循環の流れを通じて、あるいはそれぞれの状態変化の蓄積を通して、地球規模に達している。これらの変化の速度は数十年から数何百年の単位であり、これに対して地球システムの自然な力学の中で同等の変化が起こるのは何百年から何千年の単位である」(El Cambio Global y el Sistema de la Tierra(Un Planeta bajo Presi’on)(IGBP, 2004)

地球の変動、荒廃の兆候

私たちが“人間の介入”について語るとき、すべての人間が地球に同等の影響を及ぼすことが暗黙の前提とされているかも知れない。しかし、そのような前提は、危機の原因を人口増加の問題という枠組みで捉え、生産と消費のモデル、資源の不公平かつ不公正な配分、そして北と南の両側のエリートたちが私たちの地球にもたらしている顕著な荒廃といった構造的原因について語ろうとしない新マルサス主義に近いものである。

それはまた、このような略奪的な考え方と対立し、生物・生態系の多様性を尊重する持続可能な生活習慣を維持し、地球上での人類と自然の間の必要なバランスを回復する潜在的可能性を持っている全世界の多くの文化、民族、慣習の存在を無視している。

科学的根拠だけでなく経験的データからも、この60年間は“人間と自然界との関係が人類史上もっとも急激に変化した時代“だった。これを最も良く象徴している危機のひとつが気候変動である。なぜなら、それは地球と人類を死滅の危機へと導いてきたすべての構造的原因に関係しているからである。

ショッキングなことに、この危機について国際社会に警告を発している科学者を“テロリスト”だと非難するような懐疑主義者が存在する。米国の超保守的なティー・パーティー運動が気候変動に関する政府間パネル(IPCC)や国連経済社会理事会への拠出金の削減を要求しただけでなく、「人類は危機に瀕している」という認識を広めてきた科学者たちに対する審問を要求してきたことは偶然ではない。

反啓蒙主義はまた、このような地球の変動の時代の一部を成しており、緊急の変革の必要性を強く主張する私たちに刃向ってくる。

地球の危機は多面的であり、私たちの経済モデル、生産システム、人間関係における不平等、そして特にエネルギー・システム - それは市場と過剰消費の論理によって設計・確立されているために人間の真の必要にはほとんど対応していない - に直接に関係している。石炭などの化石燃料、あるいは「代替エネルギー」と称される農作物燃料や核エネルギーの使用は、人類が簡単に囚われてしまう“ブラック・ホール”になっている。

この危機は資本主義の結果であると同時に20世紀に資本主義社会と社会主義社会の両方で採用された「開発主義」の結果でもある。しかし、そのルーツは500年前にさかのぼるヨーロッパの植民地主義にあり、その考え方こそが領土の占領、自然の搾取、人間の知恵の系統的な簒奪を正当化し、非人間的な、消費に明け暮れる生活様式に奉仕するような堕落をもたらした。

このようなシステムは構造的、経済的で、生産を基礎としたものであるだけでなく、人間の主観や文化に根付いた価値観の中にも存在する。それらは強固な文化的なルーツを持つ支配のシステムなのだ。おそらくはそれこそが、私たちに“自然の声”がほとんど聞こえない、それどころか自分たちの身体を通じて受け取っている自然からの警告さえ聞こえない理由だろう。“人間の中の自然”と私たちが呼ぶ仕組みが、私たちの集合的記憶の中で“異質な何か”に変化してしまった。地球に対する裏切りを構成する行為は何百、いや何千とさえある。それらは全て私たちに影響を及ぼし、私たちを揺さぶり、私たちの芯にまでとどき、私たちを泣かせさえする。だが、私たちはそれらを忘れ、集合的忘却の域へと追いやり、暴力や不正義や死や荒廃と共存できるようになってしまう。

他人を犠牲にしてでもより良い生活をしたいという過剰消費と貪欲を支えているだけでなく、この荒廃をどんどん許容していくような文化的寛容にもその根を持つ支配的なパラダイムを変えるにはどうしたらよいのだろうか。

フクシマ・シンドローム:我々の時代にとっての暗喩

日本を襲った悲劇の中で、地震と津波によって多数の人命が失われ、市全体が消失し、さらに福島原子力発電所の爆発は恐ろしい結果を引き起こした。600万人余の人々へのエネルギー供給が停止し、切迫しているにもかかわらず隠されている放射能汚染による深刻な影響の危険が住民の健康を脅かしてきた。東京電力は「後進国」への原子力エネルギーの販売と輸出を継続するために、高い効率というイメージと、起こっている事態が制御下にあるというイメージを維持しようとしたが、繰り返される虚偽の情報や健康被害に関する矛盾に満ちた情報のために日本の人々が経験した悲劇によって、その試みは粉砕された。この悲劇のもっとも衝撃的な例として、冷却水のあふれ出しを“制御する”という不条理な作業に身を投じ、最後には命を差し出すことになってしまった作業員たちがいた。

福島は、多くの理由で私たちを震撼させた出来事の1つである。

第1に、それは「何事も金と科学と技術でなんとかできる」し、「何事も制御可能だ」という新自由主義的かつ開発主義的資本主義を支える原理総体に疑問を投げかけた。フクシマは技術も、控え目な投資(なぜなら、常に投資よりも経費節約が優先されるから)も、技術者や労働者の英雄的努力も、悲劇を回避するのに十分ではなかったことを衝撃的な形で示した。

第2に、フクシマは原発と核エネルギーに反対する闘いの中で、日本の活動家たちと全世界が30年余にわたって私たちに対して発してきた無数の警告を確証してしまった。これらの人たちが、原子力エネルギーをクリーンな代替エネルギーあるいは持続可能な技術として売り込み、このエネルギーの輸出とこのエネルギーへの依存を促進してきた大企業や「先進国」を非難したのは正しかった。フクシマはまた、1979年のペンシルベニア州スリー・マイル島や1986年のチェルノブイリをはじめとする多くの重大な原発事故のことを思い起こさせる。グリーンピースは福島におけるセシウム137の放出が30年以上にわたって食物連鎖に影響を及ぼす可能性があると警告している。このような技術が間違った解決策であり、地球に住む人間にとっての危険 - しかも地球の変化の中で、危険に対する脆弱性が100倍に高まっている - をますます強めるだけであることは一層明確になっている。

第3に、それは多くの悲しみを伴いながら、エネルギーの問題を再び、より広い文脈の中で議論の俎上にのせた。エネルギーへのアクセスを確保し需要に応えるために何をするべきかを見据えながらである。言い換えれば、エネルギー・モデルをより持続可能で、自然と人間への悪影響が少ないシステムへと変えるにはどうしたら良いのかということである。これは“良く生きる”ことや“母なる地球”を大事にすることを提唱している「南」からの要求 - これまでは控えめに、どちらかと言えばイデオロギー的あるいはレトリック的なレベルでしか表現されてこなかった - への言及を含んでいなければならない。これらの要求は、私たちの生産と消費の仕組みが自然との釣り合いの原則と、人間間の互恵的で、より民主主義的で持続可能な財の配分に基づいたものでなければならないことを示唆している。

第4に、フクシマは新自由主義的支配に典型的な - あるいは、あらゆる経済的権力に見られる‐パターンを露見させた。つまり、真実を隠し、事実を操作し、目を閉じたままでも簡単に消費できる製品を販売するというパターンである。これはもっとも重要な問題の1つであるかも知れない。なぜなら、それは主観性と日常生活の文化を基盤に確立されている新自由主義システムの力に直接に関係しているからである。

日本の人々は一連の相互に矛盾する、時期遅れの、虚偽の情報に晒されてきた。編み込まれた2本の糸のように真実と虚偽が錯綜する状況の中に人々が囚われてしまっているかのような印象を受ける。最後には、放射能汚染とよく似た状況に行き着く。放射能汚染も同じようなやり方で作用するのである。専門家たちは、原子炉の炉心の中にはウラニウム融合の結果として生成される50種類以上の放射性汚染物質があると言っている(放射能の寿命が短いものもあるが、数百年という非常に長い期間にわたるものもある)。それらの物質の構造は人間の生物学的構造と非常によく似ているため、人体に蓄積される可能性がある。私たちの身体にとって、例えばストロンチウムは、非常に有害であるにもかかわらず、私たちの身体に同化されていくヨウ素やカルシウムと“似ている”。身体はそれらを自分の一部と“信じて”吸収していくのである。

この例は、私たちが「開発」や「福祉」として売り込まれたものを“信じる”過程とよく似ている。また、開発や福祉の背後にあるもの、その起源、仕組み、そして開発の名の下に行われる不公正や危害に目を向けることなく生きることに慣れていく過程ともよく似ている。

フクシマの悲劇と全く同じように、企業、大国、そして権力者たちは、自分たちが原子力エネルギー利用によってだけでなく、温暖化ガスの放出、農作物燃料の生産、農業用化学製品の無制限の使用を通して何を引き起こしているのかを知っている。彼らはいわゆる“自由貿易”や、遺伝子組み換え作物による生物の改造を伴う“グリーン・エコノミー”なるものを推進するとき、自分たちが何を引き起こすのかを知っている。彼らは自分たちが「南」とそこに住む人々にもたらしている危害を知っている。彼らは自分たちの行動の事実と結果を知っているが、その真実を民衆には明かさない。

この意味で、フクシマの悲劇は、気候と環境の危機のリアルな隠喩である。全人類がある種のフクシマ・シンドロームを生きている。それは私たちが生命の価値を忘却することにおいて、どこまで来てしまったのかを明らかにしている。権力者たちは何が起きているのかを知っているが、自分たちの業務と、自分たちの権力を維持するための同盟関係を気遣うことを優先する。彼らは危険を承知しながら、労働者を死に追いやる。彼らは死が私たちを脅かしているということを知っていながら、現実を粉飾し、制御手段を作動させているだけである。彼らは生きる権利など尊重しない。

「最も重要な闘いは真実のための闘いだ」と言ったマハトマ・ガンジーの思想にもう一度立ち返るならば、現代社会が提示する選択は、真実と暴力とを闘わせるものだ。私たちは、真実と非暴力を同時に追求するという原則に加えて、私たちを圧倒してしまうようなシステムの危険に立ち向かい、私たちの未来を築くための決定的な基盤として、記憶を取り戻し、忘れないでいることの必要性を強調するべきである。

自然や“最も弱いもの”よりも資本、技術、権力を信頼するということは、この地球上に生き続けるための鍵とはならない。記憶 - および免責に対する闘い - は、真実、非暴力と共に、回復力に満ちた社会への移行のための戦闘の旗印だ。回復力に満ちた社会は、今まさにその実現のための闘いが行われており、その支持者たちはこれまでに十分に権力と嘘と恥辱の犠牲になってきた。

これらの原則は、日々重ねていく変革のために欠かせない土台になるに違いない。なぜならば、苦痛や、強欲のもたらす死や、私たちにあらゆるもの(「真実」さえ)を売り付けようとする絶望的な試みにも関わらず、がれきの中を突き抜け出てくる緑の草の葉のように、希望が殻を破って前進することは可能だと、これらの原則は教えているからだ。
(2011年7月14日付)

*エリザベス・ペレード・ベルトラン:ボリビアの社会心理学者、作家、水・文化・反人種主義などの問題の活動家。経済変革を目指す女性たちのラテンアメリカ・ネットワーク(REMTE)のメンバー。米国ワシントンの「フード・アンド・ウォーター・ウオッチ」の理事。80年代に女性の歴史ワークショップを設立。2003年まで家事労働者の権利全国委員会の議長。「ボリビアのブルー・オクトーバーのための全国運動」のコーディネーター。現在ソロン財団の理事長。

原文(スペイン語)
http://agendaglobal.redtercermundo.org.uy/2011/07/14/el-sindrome-de-fukushima/

[この日本語版は英語版より訳出しました]
英語版:http://www.funsolon.org/index.php?option=com_content&view=article&id=288:the-fukushima-syndrome-a-choice-between-truth-or-violence&catid=29:cambio-climatico&Itemid=43

posted by attaction at 15:29 | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする