2020年09月20日

ATTAC首都圏 小倉利丸さん連続講座:「経済」の呪縛からの解放――コロナ・パンデミックのなかのパラレルワールド

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ATTAC首都圏 小倉利丸さん連続講座
テーマ :「経済」の呪縛からの解放――コロナ・パンデミックのなかのパラレルワールド


政府やエコノミスト、財界から経済学者に至るまで、彼らが前提している「経済」の背景にある資本主義理解の基本的枠組みの問題を、浮き彫りにします。「経済」の言葉に込められた意味の罠に気付き、彼らのいう「経済」からの解放なくして、生存の権利も獲得できないということを、そもそもの支配的「経済学」のはじまりに立ち帰り、マルクスの資本主義批判の経済理解と比較しながらながら考えます。

■日時 10月6日(火) 19時から
■開催方法
オンライン(18時30分にATTACのメーリングリストに会議室アクセス情報を流します)
■参加費
500円(カンパも歓迎)
■振込先
郵便振替口座 00150-9-251494
加入者名:「アタック・ジャパン」
■事前にレクチャーの音声データを公開します
講座の数日前には、話しの内容をネットに公開し、若干の文章を掲載します。(下記)
https://archive.org/search.php?query=creator%3A"ATTAC首都圏連続講座"

あらかじめご自分の都合のよい時間に聞いていただけるようにします。6日には、その概要や補足の話をした上で、参加された皆さんからの質問や意見などの時間をなるべく多くとれるようにします。

(内容の説明)
自分たちが生きている世界の他にも世界がある....という「パラレルワールド」は、SFの物語の定番のひとつですが、実際に、私たちが暮しているこの社会そのものがパラレルワールドといっても過言ではないというと、まるで陰謀論のようないかがわしい匂いがしてしまいます。このいかがわしいパラレルワールドが今回の講座のテーマです。

ここでいうパラレルワールドとは「経済」と呼ばれる世界でのこと。ほぼ毎日、コロナ対策と経済とのバランスをどのようにとるのかがニュースになっていますが、政府やメディア、あるいは主要な経済学者たちが口にする「経済」の世界は、実は、私(たち)が生きている「経済」の世界とは同じではないのです。一方に、人類の未来を資本主義市場経済の繁栄として描くことが可能だとみなす経済の世界があります。そして、他方に、資本主義市場経済に人類の未来を委ねることはできないと考える経済の世界があり(私はこちらの世界に住んでいます)、この二つの世界は決して重なることのない世界でありながら、この二つがともに、今現在の「経済」の世界を形成しています。後者の世界を体系的に提示した最初の人がカール・マルクスになります。

政府やエコノミスト、財界から経済学者の大半までが前提にしている資本主義経済理解の基本的な枠組みと、マルクスが描き出した資本主義経済に対する批判的な考え方との間には、和解しがたい理論的対立があります。この対立は、マルスクが『資本論』を書いた19世紀後半の時代から現在に至るまで、すっと続いているものです。マルクスも支配的経済学も市場、商品、貨幣、資本、労働、価値、価格、金融などなどの概念を用いて理論を構築します。しかし、これらの概念のどれひとつをとっても、その定義は全く異なるのです。商品の価格が決まるメカニズムの説明も最初から最後まで異なります。たとえば、その典型的な例が、商品の価値(価格)決定メカニズムの説明でしょう。マルクスは労働価値説をとりますが、支配的経済学はこの考え方を根底から否定します。だから支配的経済学では、階級という観点は重視されませんし、資本の利潤の源泉は、労働に根拠があるとも考えません。こうした支配的な考え方を前提にして、政府の経済統計データや政策が策定され、財界の価値観が構築され、証券市場の売買行動があり、メディアの経済報道があるのです。

支配的経済学の理論には、労働に対するイデオロギー的な否定を科学的な装いで正当化しようとする無意識の傾向があります。労働者の労働の意義を認めてしまうと労働運動を正当化してしまい、資本の労働者への支配の正統性がゆらぐからです。やっかいなのは、支配的経済学が荒唐無稽なでフェイクなわけではなく、科学や学問の体裁をとって多くの人々がこれを信じて、なおかつ行動しているというところにあります。数千年にわたり神という虚構を真実とみなしてきたように、あるいは人種や性などの偏見を正しい態度だとみなしてきたように、社会は、人々の間違った理解に基く行動を正すことなく受け入れることができてしまいます。これが自然科学の世界と異なるところです。そして、「経済」もまた、これらと同様に、科学や学問の体裁をとりながら、虚偽意識を正当化する世界を構築してきたのです。他方で、社会に批判的な人々は、支配的な世界が構築する虚構や虚偽意識とは別の理解をとり、別の理解に基づいて行動します。支配的な世界と、これとは相容れない世界の、この二つの世界のぶつかりあいのなかで社会が軋むことになります。(実は、ジェンダーやエスニシティという条件から生み出される世界のようにパラレルな世界はもっと他にもいくつもあり、世界の軋みはもっと複雑です)

今回の講座では、このパラレルワールドの一端をのぞいてみることにします。具体的な素材として、かの有名なノーベル経済学者で、元世銀副総裁、IMF批判でも知られるスティーグリッツの経済学の教科書の冒頭を紹介して、マルクスの考え方と何がどう違うのかを話します。支配的な経済学の考え方を知ることは、まさに敵を知ることであって、これなくして資本主義批判はありえないといえます。そして、この支配的な経済の世界の支配がもたらす憂慮すべき事態について考えます。

もうひとつは、実証主義の問題です。支配的な経済学は、統計データを使って、あたかも事実によって理論の正しさを証明できるかのように振る舞ったり、逆に、理論を現実の政策に応用してみせたりしながら、経済の世界を支配しています。理論の正しさがデータで実証されるという考え方が根強くあります。社会をありのままに理論として写しとることが可能であるという考え方は、分かり易い反面、間違ってもいます。社会の本質や社会がかかえる問題の本質がどのようなものかは、実証可能なデータの世界のなかにはありません。たとえば、マルクスの搾取の理論は実証主義では証明することは不可能な仕組みをとっています。搾取理論の基本をなすマルスクの労働概念、たとえば抽象的人間労働とか剰余労働といった概念は、実証とは別の次元で構築されています。マルクスは意識的に実証主義的ではない方法で資本主義を批判したのです。この19世紀後半の時代は、同時に、写実主義とは真逆な表現が芸術の世界に登場したり、フロイトのように、実証しえない「無意識」(今にいたるまで「無意識」が人間の脳のどこから生み出されるのかは実証されていない。だからこれを認めない精神医学が支配的でもある)を見出したり、という時代でもあり、これ以降、社会に対する批判的な理論が果すべき課題は、現実を忠実に表現することとは別の次元で、現実の本質を明かにする行為となったのです。

では、マルスクの考え方で十分なのかどうか。私はそうは思っていません。とくに、資本が生み出す「欲望」や将来の理想を資本主義のなかに抑え込む仕掛けや労働者をナショナリズムの価値観に縛って階級意識を剥奪するイデオロギーのメカニズムとかは体系的には分析されていません。ジェンダーとか家事労働、エスニシティや環境の問題もそうです。資本主義における「搾取」という課題をこうした領域に拡げることなしに、資本主義を否定した次の社会が基本的に実現すべき枠組みも十分とはいえないだろうと考えています。このことを最後にお話します。
posted by attaction at 03:19 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『共産党宣言』と現代世界──疫病、グローバリゼーション、永続革命(森田成也さん講演録)

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「8・18attacウェビナー:妖怪が世界を徘徊している ――― コロナ危機という妖怪が」の講演録に森田成也先生が大幅に加筆した『共産党宣言』と現代世界──疫病、グローバリゼーション、永続革命──の全文をこちらにPDFファイルで掲載しました。以下は各章のタイトルと見出しのみです。「おわりに──ユートピアの復権」のみ全文掲載しました。(注は省略)


『共産党宣言』と現代世界
――疫病、グローバリゼーション、永続革命――

森田成也


【解題】本稿は、2020年8月18日にATTAC Japanの主催で行なわれた学習会で行なった講演に加筆修正をしたものである。当初は対面式で4月に開催する予定だったが、コロナパンデミックのせいで開催できなくなり、8月になってからオンラインで行なった。当初、「4」は単なる補論として話さない予定だったが、改めて「4」の部分を書き下ろして収録しておいた。

 なお、この講演の「1、マルクス&エンゲルスと疫病の政治経済学」は、後に、独立論文の体裁に修正したうえで、『科学的社会主義』2020年10月号の「エンゲルス生誕200周年」特集に「マルクスの先導者としてのエンゲルス――疫病、都市、住宅」として寄稿した。

はじめに――4つのテーマ、2つのポイント
1、マルクス&エンゲルスと疫病の政治経済学
  近代的疫病の3つの条件と「原理」と『宣言』
  エンゲルス『労働者階級の状態』における都市、住宅、伝染病
  エンゲルスから学んだマルクスの『資本論』
  第1次世界大戦におけるスペイン風邪の蔓延
  新自由主義的グローバリゼーションと現代の感染症


2、『共産党宣言』と資本のグローバリゼーション
  『共産党宣言』における資本の世界的拡張過程の記述
  「原理」と『宣言』における世界市場と大工業
  ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』における継承と発展
  「帝国主義の最も弱い環」で起こったロシア革命
  第2次グローバリゼーションから第3次グローバリゼーションへ
  冷戦崩壊後の新自由主義的グローバリゼーションと中国経済


3、『共産党宣言』と3つの永続革命論
  3つの永続革命論
  『共産党宣言』は単線発展史観か?
  「原理」と『宣言』における差異
  1848年革命におけるマルクスとエンゲルスの急進化
  1849〜50年前半における三重の意味での永続革命論の成立
  ルイ・ボナパルトのクーデターと戦術的永続革命論の克服
  1905年革命における2つの永続革命論の再生
  1917年革命の教訓
  グラムシ「獄中ノート」における2つの永続革命論
  ソ連東欧崩壊後における永続革命論の意義


4、『共産党宣言』とプロレタリアートの変革能力
  『共産党宣言』と階級闘争
  歴史が示した産業労働者階級の変革能力
  ロシア革命から戦後へ
  現代における展望


おわりに――ユートピアの復権

 ATTACは「もう一つの世界は可能だ」というものを重要なスローガンに掲げて結成された国際組織ですから、そこに絡めて、最後のまとめの話をしたいと思います。

 マルクスもエンゲルスも未来社会の青写真を具体的に描き出すことを禁欲したというのはよく言われる話ですが、しかしながら、「共産主義の原理」をよく読むと、エンゲルスはかなり未来社会について具体的に書いていることがわかります。それに対して『共産党宣言』では、そうした未来社会にかかわる部分はことごとく省かれており、かろうじて、「諸階級と階級対立をともなう古いブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の一条件である協同社会(アソシエーション)が登場する」(92頁)とあるだけであって、それが具体的にいかなるものなのかについては何も書かれていません。「共産主義の原理」と『共産党宣言』との差異はいろいろとありますが、未来社会の具体性についての記述の有無という点も差異の一つです。この点からしても、マルクスの特徴ないし独自性をその「アソシエーション」論に求めるのが的外れであることがわかります。

 いわゆる空想的社会主義は未来社会像についてできるだけ詳しく描き出し、それを実際に小コロニーや共産主義的アソシエーションとしてどこかの空間に建設することを通じて実践することに重きを置いていました。マルクスとエンゲルスは、そうではなく、資本主義の現存秩序をそのままにして、その隙間に共産主義コロニーを実験室的につくってもあまり意味はないのであって、労働者階級自身がその団結と階級闘争を通じて、そして最終的には国家権力の獲得と社会革命を通じて、資本主義システムそのものを廃絶しなければ、そしてそれを通じて階級そのものを廃絶しなければ、共産主義的な「協同社会」は実現しえないということを強調したわけです。

 とはいえ、エンゲルスは未来社会についてもある程度具体的に(もちろん観念的な理想像としてではなく、現在の資本主義が作り出しつつある物質的諸条件にもとづいて予想可能な範囲において)描き出すことは、労働者を共産主義的な方向へと導く上で有益であると考えて、「共産主義の原理」ではそれなりにその点についても論じています。しかし、マルクスはもっと徹底していて、『共産党宣言』では先の「各人の自由が……」云々に見られるようなごく原則的で抽象的な一句を除いては、未来社会について語ることを禁欲しました。

 というのも、どんなに想像力豊かな人でも、結局はその人の個性や環境、その人が生きている時代の技術や文化によって根本的に制約されていて、何十年もすればまったく凡庸で的外れなものに見えてしまいます。たとえば今日、インターネットがこれほど発達して、世界中の情報にアクセスしたり、あるいはまったく別の場所にいて会議をしたり、ある情報が瞬時に何百万人もの人に共有されたりということは、インターネットのない時代にはまったく予想不可能でした。古いSF映画などを観ますと、火星に基地を作ったり、空中を車が「走る」ことは想像できても、インターネットはまったく登場しないわけです。ですから、未来社会についてあれこれ具体的に思い描いても、あまり意味はないということになります。

 しかし、にもかかわらず、あるべき未来社会、「もう一つの世界」について、創造的想像力をめぐらせること、そして場合によっては一定の範囲内でそれを部分的に実現することは、歴史においてしばしば重要な変革力を発揮してきましたし、今後もなるだろうと思います。共産主義的コロニーではなく、むしろ資本主義の真っただ中でつくり出された労働組合や民主主義的結社や協同組合等々は、未来社会の萌芽であるし、その中で人々が経験する同志的で友愛的な人間関係がもたらす感動は、労働者の変革能力を陶冶するものでもありました。何より、若きマルクス自身が――「経済学・哲学草稿」で少し触れているように――フランスの共産主義的労働者が作り出していた人間関係(結社、団結)に感動し、労働者の自己解放能力に確信を持つようになったのです。また、実際には内実は官僚化されていたとはいえ、ソヴィエト労働者国家がこの世界に実在していたことは、世界の多くの人々を鼓舞する役割を果たしました。このように、歴史的な想像力と地理的なその(部分的)実現形態とはともに、社会の進歩的変革に寄与するものです。

 実を言うと、私はいま国学院大学で経済原論を教えていますが、コロナ禍のせいで対面式授業がなくなったので、授業のために私が作った教材を読んでもらい、私が教材の最後に出した課題についてレポートを書いてもらうというパターンで授業をやっているのですが、いちばん最後の授業で出した課題は、資本主義は持続可能なシステムと思うかというものでした。そうすると、意外なことに、資本主義は持続可能なシステムだとは思わないという回答が多かったのです。もっとも、これはマルクス経済学の授業ですし、授業の中でさんざん資本主義の問題性について語ってきたわけですから、ある程度、教師の望む回答を学生の側がするのはわかります。しかし、それでも、現在の社会的雰囲気の中で、資本主義を結局は肯定する意見が多いのかと思いきや(もちろんそういう意見もありましたが)、資本主義の持続可能性を否定するレポートがかなり多かったわけです。

 しかし、資本主義が持続可能ではないとしたら、ではどのような社会システムがそれに代わらなければならないのかとなると、それについて書いている人はほぼ皆無でした。そこにはやはり、いわゆる「現存社会主義」の堕落と崩壊という負の歴史という問題もあるでしょうが、同時に、ユートピアの不足という問題も痛感しました。搾取と略奪のシステムに代わる「もう一つの世界」とは具体的にどのようなものなのかについて語るのをわれわれが禁欲しすぎたために、人々は資本主義に代わる別の社会、「もう一つの世界」をいっこうに想像できないわけです。いくら『共産党宣言』を読んでも、いくら『資本論』を読んでも、いくつかの抽象的な文言以外には、未来社会に関する話はまったく出てこないのです。経済原論の授業でいくら資本主義の犯罪性について力説されようと、その持続不可能性についていくら説明されようと、じゃあ、資本主義に代わる社会システムとはいったいどういうものなのかがわからないかぎり、資本主義を変えようという意欲も、そうした努力の現実性も出てきません。人は、目の前にあるもの(それがどれほどひどいものであれ)に代わる何かを想像できないかぎり、目の前にある既成秩序に従うものです。資本主義がどれほどひどくても、それに代わるシステムが思いつかないのであれば、資本主義の枠内で何とかやっていくしかないとなってしまうわけです。

 たとえ現在の技術手段や文化的偏見に制約されながらも、われわれは資本主義に代わる社会システムについて、その基本原理だけでなく、その実体的様相についてももう少し具体的かつ魅力的な形で描き出す努力を、みんなが知恵を出し合ってする必要があるだろうと今は思っています。

(2020年8月18日講演)
(2020年8〜9月加筆修正)

posted by attaction at 03:01 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする